福島原発の双葉町で整体治療院をしていた大学の先輩からメールをもらいました。
現在は横浜に来て避難暮らしをされています。
我が家から近くの団地に転居されたので、早速、明日会ってきます。
知り合いに被災した人がいると、より一層この震災が心に深く刻まれます。
先輩はミクシィで「とんとんぱぱ」です。
ミクシィで被災から現在の避難暮らしまでを綴ってくれています。
内容は本ブログ下の追記に入れています。
彼は以前、日本橋の香料会社で香料の研究に携わっていて、
花にも感心があり、私の展覧会にも来てくれていました。
また、花倶楽部発足前にアロマカードという商品がありました。
その時に使ったのは、白薔薇の香料で、お世話になったこともあります。
ちなみに、アロマカードは花の香りのする名刺状のカードで、
そのカードに押し花をデザインして楽しむものでした。
元気な私たちが、震災と苦労している皆さんを心に刻み
頑張らないといけませんね。
明るい明日のために
まごころを大切に
頑張っている皆さんを応援しましょう

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現在は横浜に来て避難暮らしをされています。
我が家から近くの団地に転居されたので、早速、明日会ってきます。
知り合いに被災した人がいると、より一層この震災が心に深く刻まれます。
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彼は以前、日本橋の香料会社で香料の研究に携わっていて、
花にも感心があり、私の展覧会にも来てくれていました。
また、花倶楽部発足前にアロマカードという商品がありました。
その時に使ったのは、白薔薇の香料で、お世話になったこともあります。
ちなみに、アロマカードは花の香りのする名刺状のカードで、
そのカードに押し花をデザインして楽しむものでした。
元気な私たちが、震災と苦労している皆さんを心に刻み
頑張らないといけませんね。
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とんとんぱぱ
人生において一番忘れない日になりました。
突然携帯の緊急地震警報のベルが鳴りだしました。
はじめは震度4クラスの地震かなと思ったとたん今まで体験したことの無い揺れが襲ってきました。
咄嗟に治療院の駐車場の安全な位置に飛び出し地面にはいつくばっている自分がいました。
物凄い下から突き上げるような揺れと地球がグルグルと回るような横揺れが物凄いスピードで
周りを揺り動かし続けている2分以上の時間はとても生きた心地がしませんでした。
心の中では夢であってくれという気持ちいっぱいでした。
その揺れの中で後ろのほうでガシャという音が数回聞こえたり、目の前の自動販売機が横転したり
屋根の瓦や壁がどんどん上から降ってくる光景は映画のセットなどで描かれる光景と同じでした。
本震が終わり治療院に戻って中を見るとすべての物が下に落ち散乱していました。
当然棚などはすべて倒れてしまい地震の凄まじさをまざまざと見せつけられました。
幸い治療院の建屋は無事でした。
実家は築75年ぐらい経っていたので仕事着のまま心配で走って戻ることにしました。
家までの戻る光景はまさに大震災後の映画のセットのようで全壊の家が数件、屋根のかわらが
至るとこに散乱し道にも大きな亀裂や陥没した箇所。さらにすべての橋が道と15cm以上も段差が
起きていました。親戚の立派な石蔵は跡形も無く全壊しておりおばさんが途方にくれていました。
家の途中の墓地もほとんど墓が無残に倒れていました。
家に到着すると母屋は外見は無傷でしたが中は治療院と同じ様にすべての物が倒れ足の踏み場もありませんでした。家の中の壁には縦に亀裂が数十箇所見られました。蔵は残念なことに半壊。
母、妻、娘は無事でホッとしました。息子は小学校に行っていたのでいませんでした。
それから震度4~5クラスの余震が頻繁に続いていたので家族を安全な場所にある車に移し
息子を妻に迎えに向かわせました。その間に町の住民が高台の中学校に毛布と鞄を持って
続々と集まってきました。我が家も余震が怖いのでその日は中学校の教室で一夜を明かしました。
その間にも怖いくらいの余震が数十回あり寝た心地はしませんでした。
次の日の朝、いきなり全町民が川俣町に避難指示が出されほとんどの住民は着の身着のままの状態で避難することになりました。その時には原発で飛んでもない事態が起こっていることなど知る由もありませんでした。
3/12~3/15に掛けて次々に水素爆発と火災でかなりの放射性物質が大気中に放出されることになりました。特に、3/14のAM1:00にいきなり避難所で“おはようございます”との声で起こされました。3号機が水素爆発をお越し放射能漏れが有ったので車に大事なものがある人は今のうちに取りに行くようにとの指示でした。東京電力上層部から関係者の人には3/14の朝に起きた水素爆発の時に早く遠くに”逃げろ”という指示があったと聞きました。我々も直ぐに別の所に避難したかったですが車の燃料があまりなかったのでその時は直ぐに移動できませんでした。それからいろいろ情報を集め新潟には燃料があるとの情報が得られたので先ずは山形に向かうことにしました。我が家族は母が具合が悪いので避難所暮らしが難しいと判断し15日に避難所から山形県南陽市の旅館に避難場所を移し体力を回復させました。避難所では毎日朝昼晩と小さい塩おにぎり一つしか配られなかったのでかなり体重も減っていました。南陽市では燃料が給油することが出来ず結局は県境の小国の給油所で20リットルを得ることが出来、燃料の心配がそこでなくなりかなりホッとしました。
新潟に入ると燃料不足など微塵も感じられませんでした。
そこから月岡温泉・水上温泉と移動し神奈川県伊勢原市の弟の家に2週間身を寄せました。
3/31から横浜市旭区にある左近山団地に入ることが出来、子供も無事学校に転入することが出来ました。娘も明日から保育園に通えることになりました。
当分福島に帰ることが出来ないので5月からは仕事を探さなければならないと考えています。
現在は元気に毎日を過ごしています。
人生において一番忘れない日になりました。
突然携帯の緊急地震警報のベルが鳴りだしました。
はじめは震度4クラスの地震かなと思ったとたん今まで体験したことの無い揺れが襲ってきました。
咄嗟に治療院の駐車場の安全な位置に飛び出し地面にはいつくばっている自分がいました。
物凄い下から突き上げるような揺れと地球がグルグルと回るような横揺れが物凄いスピードで
周りを揺り動かし続けている2分以上の時間はとても生きた心地がしませんでした。
心の中では夢であってくれという気持ちいっぱいでした。
その揺れの中で後ろのほうでガシャという音が数回聞こえたり、目の前の自動販売機が横転したり
屋根の瓦や壁がどんどん上から降ってくる光景は映画のセットなどで描かれる光景と同じでした。
本震が終わり治療院に戻って中を見るとすべての物が下に落ち散乱していました。
当然棚などはすべて倒れてしまい地震の凄まじさをまざまざと見せつけられました。
幸い治療院の建屋は無事でした。
実家は築75年ぐらい経っていたので仕事着のまま心配で走って戻ることにしました。
家までの戻る光景はまさに大震災後の映画のセットのようで全壊の家が数件、屋根のかわらが
至るとこに散乱し道にも大きな亀裂や陥没した箇所。さらにすべての橋が道と15cm以上も段差が
起きていました。親戚の立派な石蔵は跡形も無く全壊しておりおばさんが途方にくれていました。
家の途中の墓地もほとんど墓が無残に倒れていました。
家に到着すると母屋は外見は無傷でしたが中は治療院と同じ様にすべての物が倒れ足の踏み場もありませんでした。家の中の壁には縦に亀裂が数十箇所見られました。蔵は残念なことに半壊。
母、妻、娘は無事でホッとしました。息子は小学校に行っていたのでいませんでした。
それから震度4~5クラスの余震が頻繁に続いていたので家族を安全な場所にある車に移し
息子を妻に迎えに向かわせました。その間に町の住民が高台の中学校に毛布と鞄を持って
続々と集まってきました。我が家も余震が怖いのでその日は中学校の教室で一夜を明かしました。
その間にも怖いくらいの余震が数十回あり寝た心地はしませんでした。
次の日の朝、いきなり全町民が川俣町に避難指示が出されほとんどの住民は着の身着のままの状態で避難することになりました。その時には原発で飛んでもない事態が起こっていることなど知る由もありませんでした。
3/12~3/15に掛けて次々に水素爆発と火災でかなりの放射性物質が大気中に放出されることになりました。特に、3/14のAM1:00にいきなり避難所で“おはようございます”との声で起こされました。3号機が水素爆発をお越し放射能漏れが有ったので車に大事なものがある人は今のうちに取りに行くようにとの指示でした。東京電力上層部から関係者の人には3/14の朝に起きた水素爆発の時に早く遠くに”逃げろ”という指示があったと聞きました。我々も直ぐに別の所に避難したかったですが車の燃料があまりなかったのでその時は直ぐに移動できませんでした。それからいろいろ情報を集め新潟には燃料があるとの情報が得られたので先ずは山形に向かうことにしました。我が家族は母が具合が悪いので避難所暮らしが難しいと判断し15日に避難所から山形県南陽市の旅館に避難場所を移し体力を回復させました。避難所では毎日朝昼晩と小さい塩おにぎり一つしか配られなかったのでかなり体重も減っていました。南陽市では燃料が給油することが出来ず結局は県境の小国の給油所で20リットルを得ることが出来、燃料の心配がそこでなくなりかなりホッとしました。
新潟に入ると燃料不足など微塵も感じられませんでした。
そこから月岡温泉・水上温泉と移動し神奈川県伊勢原市の弟の家に2週間身を寄せました。
3/31から横浜市旭区にある左近山団地に入ることが出来、子供も無事学校に転入することが出来ました。娘も明日から保育園に通えることになりました。
当分福島に帰ることが出来ないので5月からは仕事を探さなければならないと考えています。
現在は元気に毎日を過ごしています。
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